前頁⇒【1988年8月20日~21日】前橋で過ごした時間
1988鉄道旅行★北海道の目次
さよなら群馬
両毛線482M。前橋駅を20時29分に出るこの列車は満員電車だった。輪行袋と大きなバッグを抱える僕にとってかなり気が引ける状況ではあったが、この列車に乗らないことには家に帰れない。とにかく乗り込んだ。いきなりのぎゅうぎゅう詰めで、さよならの感傷に浸っている余裕もなかったが、次の新前橋に着くと乗客は一気に減った。隣のホームにいる始発列車に乗り込む人が多いようだ。
僕はかなり余裕ができた車内で座席に座り、ふぅ~っとため息をついた。そして列車は進み高崎駅に到着する。時刻は20時42分で上野行の列車が来るのは5分後だ。
5分後やってきた列車は、なんとさっき新前橋駅で見た列車だった。そうだ、乗り換えておけばよかったのだ。そう気付いた時「座れるのかな~」という不安がよぎったが、なんとか席は確保することができた。
上野までは2時間ある。ちょっと眠気に襲われたり揺れに起こされたりを繰り返しながら時は過ぎていった。
時刻はほぼ22時半頃。もう少しで終点というところで僕の目はギラギラと光っていた。京浜東北線や埼京線その他当時の「E電」が並走したりすれ違ったりと忙しい車窓になり、尾久の車両基地に停まっている特急型電車たちの赤いランプをつけて休んでいる姿もワクワクが止まらない。
こうしてすっかり目が覚めて、「うぐいすだに」の駅名標が流れていくのが見えて、列車は上野駅の14番線に到着した。22時40分だった。何と、ブルートレインが両側に見えてまさに「両手に華」状態だった。扉が開き、たくさんの乗客が降りていき、僕も大きな荷物を手にして降りた。するとすぐ目の前15番線の寝台特急北陸号の発車のベルが鳴り、それを見送った。
するとその向こう、16番線にはもう一人のヒーローがたたずんでいるではないか。
臨時特急あけぼの81号。通常24系客車でしか見られないはずのあけぼの号が臨時では583系電車で運転される。「お~、こんな時間に出発やったんか~」とまったくノーマークだった列車との遭遇に感激しつつ、一枚だけ撮影して山手線ホームへと急いだ。
山手線はがら空きだった。しかし、偶然座ったところの目の前には酔っ払いのおじさんがいて、時々こちらを見ていた。「うわぁ、からまれたらいやだなぁ。」と思いながら、目を合わせないようにしつつ、御徒町・・・秋葉原・・・とカウントダウンしていった。長く感じられた時間だが、何とか東京駅に到着した。時刻はほぼ23時ちょうどだ。
東京駅にはいっぱい蛇がいる
やってきたのは10番線ホーム。西へと向かう長距離列車たちが発着するあのホームだ。
それにしてもこの「人・人・人・・・」何なんだ!
よく見てみるとグネグネと並ぶ人の列、しかも2列でホームのはんたいがわまで行ったら折り返して戻るような、「Uの字を二重にした」形の列が、それぞれの乗車位置に合わせて存在したのだ。まさにヘビが何匹もホーム上にいるような光景が見られた。
考えてみると大変なことだ。一つの乗車口から50人くらい乗り込もうと並んでいるのだ。車両の定員は80名くらいか?一両にドアが二つあるということは100名になるから20名も定員オーバー。すごいな~。しかも僕は列の最後尾にいる。お~、どうなることやら・・・。
同じ8月でもお盆の時期なら急行銀河83号といった列車が走る日があり、そちらを選ぶ選択肢があるのだが8月下旬に入ったこの日はそんな列車もない。もっとも、その列車を選択できるとしてもそれは「僕ではなく、他の人たちが選ぶ選択肢」ということなのだが。
最後に訪れた事件?試練?
長い蛇の一員として列車を待っていた間にまたぽつぽつと人が並んでいった。その中のお一人が外国人の方だった。今更白状するまでもないが僕はとにかく英語が聞き取れないし話せない。よりによってその外国人さんは僕に話しかけてきた。
「ズリスレイン ゴルナ ゴーヤ?」(僕にはそんな風にしか聞こえなかった)
僕はあっけにとられ「あ・・・えー・・・モイチド!」と、人差し指を立ててみた。すると、
「じーす とれーん なごーや? ごー? おあー のー?」
と、極めてゆっくりと尋ねなおしてくれた。
僕は何とか理解はできたものの、伝え方がわからず
「OK! なごーやOK! ダイジョーブね」と伝えた。
その人はにっこりして後ろに並んだ。恥ずかしいから近くにいないで欲しかったが、喜んではくれたようでとにかく良かった。
そんな冷や汗いっぱいの時を過ごして列車が入線。蛇たちが列車内になだれ込んでいった。途中からは流れが滞るようになり、ちゃんと乗れるのかが心配になってきた。いわゆる積み残しをされてしまったらもう路頭に迷うしかない。
しかし、すべての席が埋まった後も車内の通路にたくさん人が入り、僕たちもデッキまではとにかく歩を進めることができた。輪行袋の大きな荷物が申し訳なかったが、置いて帰るわけにいかないのだからここは開き直る。外国人の方もちゃんと乗れた。デッキでは押しくらまんじゅうでみんな立ったまま我慢大会の様相だった。
なにかと続く外国人さんとの関わり
23時25分。熱気むんむんの375M列車は東京駅を出発した。車内放送が一度きり流れて主な停車駅の到着時刻を伝えていた。僕はさっきの外国人さんに名古屋の到着時刻を伝えた。もちろん英語ではなく、指でドアの窓に数字をなぞっただけである。
そんな僕の横で事件が起きた!(というのは大げさだが・・・)
同じように隣で立っていた別の人が外国人さんにスムーズな英語で話しかけたのだ。
「えあーゆーろー」(やはりこうしか聞こえなかった)
「うぇすじゃーま」
お!今のはわかったぞ!西ドイツやん!てっきり今の今までアメリカ人かなと思っていたのに西ドイツの人だったのか~。と、一つでも聞き取れたことに一人で満足感を覚えていた。ふと微笑んだ僕を見てドイツ人さんがこちらを向いてニッコリし、突然ご自分のトランクを横向きに置きなおして指さし、そこに座るように勧めてくれた(もちろん身振りで)。
これはものすごくありがたかった。トランクに座らせていただき、ぼんやりと外を眺めた。というのも、横浜を過ぎて日付が変わっても1時過ぎの小田原まではすべての駅に停まるため、うかつにドアにもたれて眠ったりはできないからだ。それまでの間は熱気いっぱいのデッキで、停車する駅ごとに換気を行い再びムンムンと温度上昇しては換気することを繰り返していった。
横浜あたりまでは乗車しようとする人の姿がホーム上にチラホラとみられ、こりゃあ無理だと別のドアを見に行く人がいたが、小田原までの間にはわずかながら下車する人もいた。ほんの少しの余裕が生まれたことと疲労の極限だったこと、そして少しの間列車が停まらない状況が訪れたことで僕はトランクでなく地べたに座り込み、ドアにもたれて体を預けた。トランクを椅子代わりに提供してくれたドイツ人さんにお礼を言いたかったが、立ったまま眠っているご様子だったのでそのままになった。
「この後、目があったら感謝しよう。」 そう思って眠り込んだ。
列車は1時22分に定刻通りに熱海に到着した。再び温度が上昇してきていたデッキ内に涼しい風が吹き込んだ。そしてまた列車は進み、三島、沼津と停車した。
沼津駅。1時42分に到着した345Mはここで19分の停車がある。エコノミークラス症候群の予防にはもってこいの体操タイムだ。ドイツ人さんは変わらず目を閉じている。ホームに出ると、汗ばんだ身体に夜風が心地よい。十分に涼んでから車内に戻った。
345Mはこの後、浜松駅まではたくさんの駅を通過するがそこからは各駅停車に戻る。快調に走る中、僕ば再び座り込んでガタガタとうるさいドアにもたれたり離れたりを繰り返しながら、ウトウトしていた。そのあとの記憶は・・・・。
大垣夜行からエピローグへ
「列車はまもなく終点、大垣に到着いたします」
車内放送が流れて僕は目が覚めた。周りを見回すと結構人が減っていて余裕があった。
「あ!ドイツ人さんは?」
残念ながらその姿はなかった。
そうだ。話しかけられたきっかけは「なごーや」にこの列車が行くかどうかだったのだ。もう降りてしまったのだ。
トランクに座らせてくださったお礼を言えなかったことを少々後悔しながら、列車を下りる用意をした。言うまでもないが、あの時のドイツ人さんへの感謝の気持ちは今も変わらない。
6時57分 大垣駅到着。
この頃「大垣ダッシュ」などという言葉があった記憶はないが、次の列車へと急ぐことはある程度必要だった。乗り換え時間は12分ほどあるものの、座れるかどうかは死活問題だったからだ。僕は輪行袋という大きなハンデを抱え、なんとか急ごうとするものの足がなかなか進まない。やれやれ、西明石行きの普通電車もやはり混雑し、ここも立ち乗りになってしまったが仕方がない。いざとなればしゃがみこめばいいかというくらいの気持ちで乗った。
窓の外を見ているとひとりの人が話しかけてきた。見るとその人も輪行袋を持っている。
「輪行ですか」「どこへ行くんですか」「私は富士山に登った帰りなんですよ」などなど、まるでサークル仲間にでも話しかけるようにしてフレンドリーに話しかけてくれた。無精ひげが印象的なこの人は、僕がトイレに行く間荷物を見ていてくれたりして親切だった。
彼が米原で下車してからは静かに時間が流れ、まるで砂時計のようだった。
9時5分、いつもの僕の庭、京都駅に到着した。
いつもの水色の電車がいて、落ち着く景色が目の前にある。
「帰ってきたな~」「なんとか帰ってこれたな~」
そんな思いが交錯するひとときだった。
昨夜から飲まず食わずだったが、ようやく先が見えたこともあり、奈良線の8番ホームでジュースを飲んだ。
9時17分、オレンジのラインの105系電車が発車した。
旅の終わりをしみじみと感じてはいたが、疲れ切っていたのでいつもの「胸を締め付けるような寂しさ」は感じなかった。奈良線に乗るのは東福寺までの一駅。
東福寺では京都方面へは同じホームで乗り換えだが、大阪方面へは階段を下りて上る必要がある。重い荷物が試練に思えるのもこれで最後だ。
京阪電車。正真正銘、これが最後の列車だ。途中で急行に乗り換えることもなく、そのまま樟葉駅にたどり着いた。
「あ~、腹減ったな~。」
そう言いながら自転車を組み立て、我が家を目指した。
おわり