春は別れの季節~これは卒業?~
今年もこの季節がやってきました。
ダイヤ改正の3月、もしくは葬式鉄の3月と揶揄する人たちもいます。
3月14日。 この日は私にとって非常に思い出深い日です。
2009年当時山口県萩市で日本海ファクトリーの前身であるジェイトリム山口を営んでおりました。そう、この頃の山口県と言えば東海道・山陽路から最後のブルートレイン「富士・はやぶさ」が姿を消そうとしていた時期です。
この日を迎えるまでのしばらくの間、一生懸命その姿を追いかけました。
下関駅でのEF81⇒EF66の機関車交換、門司駅でのED76⇒EF81機関車交換はもちろんのこと、その逆パターンも、走行シーンも、出来る限り追いかけたのを思い出します。
思い込みで「小倉駅で連結・切り離しをする」と思っていて、貴重なシーンを取り損ねたのも良い思い出です。
門司駅で連結作業のトランシーバー音声の真横で撮影できたのも貴重な経験でした。YouTubeへ
そして、いよいよ迎えた最終列車の出発、そして翌朝の3月14日。
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最終「富士・はやぶさ」~東京駅出発と武田アナの一言~
3月13日の夕方、事務所でNHKのニュースを見ていた私。
武田真一アナウンサー担当のニュースの最後の場面で、富士・はやぶさの出発シーンが流れました。インタビューを受ける人々のどの声よりも印象深かったのは武田アナの最後の一言。
「わたしもこの列車でふるさとを後にしました。
・・・・さようなら。」
じんわりと涙があふれ、もらい泣きしたのを思い出します。
110分遅れで到着した最終日の「富士・はやぶさ」~宇部駅~
いてもたってもいられず、翌朝は早起きし、6時すぎに萩を出発しました。
山口県をよくご存知の方以外はピンとこないかと思いますが、
日本海側の萩市から宇部駅までは1時間20分はかかります。
ですから7:55到着の列車を絶対に見逃すまいと十分な余裕をもって向かいました。
7:30分過ぎ。予定通り到着したのですが、改札のところまで行ってみると、「寝台特急富士・はやぶさ ただいま94分遅れ」という案内。 すでに貼りかえられたダイヤ改正後の発車時刻表との何とも言えないコラボのホワイトボード。
「このままいったら9:30まで待たな、あかんなぁ」と、
時間つぶしの方法を考え始めました。
そして、少々冷え込んでいたこともあり、
その他の大勢の人たちと同様「駅そば」をまずすすることにしました。
もっとも、それで2時間も埋まるわけではないので、
車に戻りしばらく休憩しました。
9:20ごろ、「もうそろそろ準備を」と思って見に行くと、遅れは104分に拡大。「ここまで待ったんだから、10分や20分延びても平気」とばかりに、ホーム上で待つことにしました。
今のJR東日本の様にどこトレがあるわけでもないので、とにかく来るのを待つだけです。結局「富士・はやぶさ」は110分(1時間50分)遅れで9:45に到着しました。
通常ですと、到着時刻と出発時刻が時刻表上で同じなので停車時間は1分以内なのですが、なぜか5分ほど停車したためじっくりと最後のお別れを楽しむことができました。(終点にはそれぞれ2時間以上遅れて着いたようです)
トラブルでなかったかどうか、少々心配になりましたが・・・。
・見送る後姿に、「一時代の終わり」を感じました。途絶えることなくヘッドマークを着けて走りぬいた、東海道筋のブルートレインたちがついに終わりを迎えたのです。
・欲を言えば、最後まで24系25型を貫いてほしかったと思うのですが、分割併合ありの列車として最後を迎えたのですから仕方のないことでしょう。
思い出に少しの間浸れた下関・・・
この日からしばらくはブルートレイン・レス症候群とでもいうのでしょうか。結構さびしい気持ちがなかなか消えませんでした。 そこで、仕事で下関方面に行く度に、下関総合車両所 運用検修センターに立ち寄りました。
そこには休車札が差し込まれたEF66が何台か、しばらく止まっていました。でも、行く度に1台、また1台と減っていくのがさらに寂しさを募らせました。
そこにEF66の姿を見ることはもうほとんどありません。
客車寝台列車時代の終わりは目の前。
あと数日で、夜行急行はまなすも寝台特急カシオペアも一旦終わりを迎えます。人それぞれに抱えている思い出の形は違うことでしょう。
でも、客車による寝台列車、夜行列車という旅の形が終わりを告げる今、「こんな素敵な列車が走っていたよね」と楽しい思い出を語り続けていきたいなと思うのです。