【1987年7月】天文気象部・竹野合宿~前篇~ | 列車データ館
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【1987年7月】天文気象部・竹野合宿~前篇~

鉄道旅行記
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1987年7月25日。高校2年の天文気象部・夏合宿の日を迎えた。
そう、紆余曲折の末に決定した竹野合宿への出発日だ。

国鉄からJRに替わった最初の夏。
鉄道関係の変化が多く興味深い旅となりそうだ。
(僕と谷川部員にとって・・・。)

部員たちが、いつものように京阪電車樟葉駅集合したのは午前9時。
出掛ける前の確認作業を始める。

僕(=部長)「ちゃんと荷物持ってきたか?」

真也「おうっ、アイピースもって来たで」

谷川「おれもアイピース持ってきた」

とおる「僕も持ってきました」

と、肝心のアイピースを忘れて行ってしまった前年の伊勢志摩合宿の失敗を
なんとか取り戻そうとしているかのように、みんなでこぞって持参した。
(いくつあれば気が済むんだ。まったく無意味。)

◆竹野合宿へ、いざ出発!

僕たちはいつものように、近鉄でなくJR奈良線に乗り、京都駅に向かう。
奈良線は電化して3年経過しても、105系の短編成でローカル線風情たっぷり。
やっぱりローカル線色の魅力が捨てがたい!
(これから十分堪能できるのだが、わずかな汁も吸い尽くす)

京阪電車からJR奈良線に乗り換えた東福寺駅。
そこからわずか1駅で京都に到着する。

JR奈良線の8番線ホームは一番南で、山陰ホームは一番北の端。
しかも、階段を降りてさらに西へと延々歩いていく。

でも僕らは跨線橋を元気良く渡って行った。(まだまだ元気。この時点では。)
ちなみに、荷物は天体望遠鏡一式のほか、観測用品一式。

そして自転車。とおる部員と僕が輪行をしたのだ。
こんなふうに大きい荷物だったが、まだ気にならず。

そこに、もう一人、遅れて近鉄経由でやってきた吉田先輩。
二つ上の、もう卒業した先輩だがとにかく面倒見がいい先輩。
そして彼も輪行袋に入った自転車を肩に掛け、これで輪行組は3人。

それから、荷物係に見張ってもらう中、僕と谷川君がみどりの窓口へ行った。
人数分の自由席急行券を買うためだ。
しかしながら、乗車券は自分たちの分だけを用意した。

そこには切符をコレクションするための緻密な計画がある。
●その他部員たちには城崎までの車内販売切符を買わせる。
●城崎駅で、僕と谷川部員だけが外に出、みんなの竹野行き切符を買う。
●竹野駅では「城崎⇒竹野」の切符だけを駅員に渡す。

部員たちはその考えに付き合ってくれた。いい奴らだ。1987青春18きっぷのパンフレット

さて、この夏、僕の目を引いたものがあった。
それは「青春18きっぷ」のポスターとチラシだ。
今まで見てきたものよりかなりいい雰囲気を感じたのだ。これはもしかして旧型客車の窓?。長時間停車中の出来事?
シチュエーションは不明だが、かなり気に入った。

まもなくそこに、急行丹後が入線した。

◆急行丹後・前半戦

早速乗り込んでみんなは座席を確保した。ボックス席を2区画。

急行丹後僕と享部員、そして吉田先輩はデッキで自転車の輪行袋を固定した。さすがに3台も固定するスペースはなく、吉田先輩は隣りの車両のデッキに行った。キハ58のタイフォンがホームに響くとすぐ、エンジン音が高まり列車は動き出した。

買い込んだお菓子を早くも開封し、出発前から騒ぎ出す部員たち。

東海道本線の何本もの線路が左に遠ざかり、梅小路蒸気機関車館を過ぎると
山陰本線は高架になり、まもなく丹波口駅に到着。
地名の看板に壬生という字が目立つ。

たしか新撰組関係の本で見たことがある地名だったような・・・。
二条駅を過ぎてしばらくすると映画村で有名な太秦(うずまさ)、そして嵐山。

ここからがいよいよ保津川沿いの素晴らしい景色の区間。
まだ新線に替わる前、今の嵯峨野観光鉄道トロッコ線の線路の区間は絶景だ。

やがて車掌さんがやってきた。
僕らは呼び止めて手書き切符を購入。やったぜ。

亀岡まで来ると、保津川の景色からは離れ、いわゆる農村と地方都市。
京都近郊のベッドタウンとしていくらか発展しつつあるが、まだまだ田舎。

ヘッドマークを一新。特急あさしお列車が八木駅に到着するとディーゼルエンジンの音が止み、車内放送がなった。
「上り、特急列車待ちのためしばらくお待ち下さい」
この路線で日中走る特急列車というと、列車名は1種類のみ。特急あさしお号だ。力強いキハ181系のエンジン音を響かせ、隣りの線路をすれ違っていった。
いつの間にやら、絵入りデザインのヘッドマークに変更されていた。「なかなかかっこええやん。」

すれ違った後、出発しさらに北上を再開。
八木駅から園部駅へと続く線路は国道9号線と平行している。
その間の吉富駅では国道を見下ろす形になる。

ふと思い出したが、高一の時に丹波自然公園に行った帰り、
急行白兎とすれ違ったが、ここだったような気がする。

園部から京都に向かう道中の、まっすぐな線路とまっすぐな国道。
ほぼ間違いなく、あの時の景色だ!。

やがて園部についた。ここは京都からの普通列車の多くが折り返す駅。
後にアーバンネットワークの一翼を担う路線の端に位置する。
確かに、京都のベッドタウンとしての位置づけはこの園部ぐらいが限界だろう。

園部駅の駅名標とタラコ色キハ47

さて当時の話に戻るが、タラコ色の気動車が出番を待つ風景が街になじんでいた。首都圏色という名称はどうもしっくり来ない。「タラコ色」気動車。

園部駅では彼らの姿がイキイキしていた。
同じ仲間たちと肩を並べ、やがてここから追われる日が来ることなど知らないかのように現役バリバリの姿で働いていたのだ。

考えてみると、その後まもなく姿を消すことになる旧型客車たちもまだ、かろうじて活躍の場を持っていたのだから、そう見えても何の不思議もない。

さて、部員たちは相変わらずお菓子を食べながら騒いでいた。
僕もそれに巻き込まれ、鉄分摂取が中途半端な状態が続く。
そうして気が付くとあっという間に綾部駅に到着してしまった。

この40分以上の時間、鉄分の記憶は「胡麻」という珍しい駅名しかないぞ。
ここで鉄道ファンとしては恥ずかしながら、この辺の線路がどう繋がっているか、
イマイチつかめていないことを自ら最認識した。
でもとにかくこの駅から別の線路が出て、西舞鶴や小浜や天橋立方面に行けるはず、
ということはどうにかイメージできた。

ただ、地図から目を離すともう混乱・・・・。
いや、僕らの行き先はこっちじゃない。とあきらめる始末。
10分も走ると、福知山駅。

◆急行丹後号・後半戦

去年の夏、真夜中に降り立ったあの駅までやってきた。
だから、僕にとってはじめて乗る区間はここまでだ。
言わずと知れた、福知山線との合流点の駅。このあたりの鉄道の要所だ。

あの時(去年の夏の真夜中)とはまったく雰囲気が違って見えるけれど、
変わらずDD51や旧型客車がそこにいることはとても嬉しく懐かしかった。
福知山駅でのしばしの休息の後、急行丹後は再び動き出した。

天文気象部一行は相変わらずはしゃぎまくっている。

列車は福知山駅を後にして、エンジン音をうならせながら加速した。
去年の夏に乗った急行だいせん5号の時にも感じたことだが、
福知山から山間部に入っていくにつれ、急激に力を入れていくという印象だ。

ただ、気動車急行と客車急行とでは少々異なり、
ディーゼルの凄まじい音が編成全体に響き渡る分、スピード感が強く感じられる。
実際のところは早いのか遅いのか分からないが、力強く夜久野峠を駆け上がった。

その勢いのまま、右側の国道9号線を走っているトラックを追い越す。
峠を越えると、長かった京都府に別れを告げ、兵庫県へ。
そのまま下っていくうちに国道は左に移り、下りきったころ梁瀬駅を通過した。
右には山がそそり立っているが、左は国道に沿って町々が広がる。

そしてやがて和田山の町へ。
和田山駅を目前にしてエンジン音が静まり、惰性走行でホームに入る急行丹後。
そして、そこには福知山駅と同様、僕の大好きな旧型客車たちがいた。

福知山駅と同じように旧型客車がたたずんでいた和田山駅。
車体表面の塗装を見る限り、やはりかなり色あせた感じはする。

とはいえ、まだまだ現役だった。

福知山線から追われても、山陰本線での客車運用もまだ少なからず残っており、
もしかしたら播但線でもまだ活躍していたのかもしれない。
和田山駅の駅名標を見ると、懐かしい木製枠。

JR元年では、そうすべてが一気に変わっていったわけではないことが分かる。

さて、昨年のあの夜に見た和田山駅は本当にひっそりしていたが、
こうして日中に見たこの駅もとても静かで穏やかな印象だった。
それでも、播但線との分岐点(合流点)であることから、車両は数多く集う。
出番を待つ客車・気動車の姿が数多くいてなんだか嬉しい。

名残惜しかったが、和田山駅で休憩中の旧型客車たちに別れを告げて、
急行丹後は再び城崎を目指して進み始めた。

車窓には、時々スキー場を宣伝する「ハチ高原」とか「氷ノ山」という看板が目につく。
そういえば中2のときにスキー学習でハチ高原に来たなぁ、でも、こんな場所だっけ?
と、3年前の記憶を搾り出してみたが、あの時鉄道に触れた記憶はこれっぽっちもない。
たしか、バスに乗っていて窓も曇るから、鉄道を近くに感じられなかったのかも。

列車は養父、八鹿、江原を過ぎ、豊岡に着いた。
この豊岡駅からはJR宮津線が分岐している。(現在は北近畿タンゴ鉄道宮津線)
少しの停車時間を利用して駅スタンプを押してきた。

そこには日本一のかばんの町と描かれたデザインだった。初めて知った。
さて、豊岡まで来ればもう終点は近い。

玄武洞をさっさと通過し、急行丹後の終点、城崎到着。
やかましい部員たちに挟まれながらも、充実した鉄道旅行の時間を味わえた。

◆城崎駅、そして旧型客車の旅

この城崎駅で僕たちは列車を降りて次の列車を待つことに。
とは言っても、改札を出るのは僕と谷川君だけ。

なぜなら、策を練って手に入れた手書き切符を手放すわけにはいかないからだ。
僕は谷川部員と共に「みんなの切符を買って来るからここでちょっと待ってて」
と残りの部員たちに言い残し、改札に向かった。

2人分の切符は犠牲として駅員さんに差し出して改札口を出た。
そして、みどりの窓口で竹野行きの切符を9枚購入した。
駅員さんはその枚数に怪訝な顔をしながらも、何も尋ねず手渡してくれた。

そして僕たち2人は、ちょっと駅の外へ。
急いで記念撮影をする。と言っても駅の建物だけ・・・・
撮影を終えた僕と谷川君は皆が待つホームへと急いで戻った。

待たせて悪かったなぁと少し思いながら戻ったが、誰も気にしてはいなかった。
部員たちはそれぞれに、漫画やウォークマンなどで楽しんでいた。
脳天気なやつらめ!

さて、予定通りだとここから一駅区間の旅はあの旧型客車!そしてDD51の牽引。

なにしろ、僕にとってこの列車に乗ることが合宿地選択の最大の理由だったのだ。

甲高い汽笛を鳴らすDD51。そしてネイビーブルーの旧型客車編成がやって来た!。
正直言って「12系が来たら、ちょっとがっかりやわ」と一抹の不安を感じていたが、僕の願いはかなった。

それにしても海水浴シーズン。どこから来たのかすごい乗車率の列車だった。
長年の夢、そして残り少ないチャンスをつかみ、目の前にした旧型客車の旅。
混み合う車内に大きな輪行袋を持って乗り込む3人とその他大勢。

列車の中にはエアコンはなく、扇風機が勢い良くブンブンまわっている。
一瞬、旧型客車の味わいをゆっくり味わえないなぁと思ったのだが、
「いや待てよ、これこそ旧客全盛期の鉄道旅行の味わいかも!」と思った。

僕らは、暑苦しくも楽しい時間を十分に満喫した。
「うん、これで良かったんやわ。ほんまに。」
そうして列車はたった一駅区間の思い出深い旅を僕らにくれた。

長い長い旅の末、合宿地の竹野に到着。
僕らは旧型客車編成を見えなくなるまで見送って、今回はみんな揃って駅を出た。
当然のごとく切符はすべて回収された。

僕たちは竹野駅を出て記念撮影した。
今回は駅舎だけでなく、天文気象部部員たちと共に。

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