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【1987年8月】米子駅は気動車の魅力たっぷり

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米子駅で日中に行なう初めての撮影会。
それを十分に堪能できて僕は大満足だった。
その頃には特急券(指定券)をゲットしそこなったショックもすっかり癒えていた。

さて、夕方になったのでそろそろお宿に行かないといけない。
今夜のお宿は、隠岐の親友の紹介で泊めてくださる、村田さんという方のお宅。

聞いたところでは米子市内の西福原という所にお住まいがあるらしい。
住所はすでに教えてもらっているので自転車で行こうと思うのだが、
駅を出たらそこはチンプンカンプン。土地勘がないため見当がつかない。

そこで、駅員さんに尋ねてみることにした。
「すみませーん。西福原という場所はどちらの方向ですか?」
すると、後ろに立っていた見知らぬおじさんからいきなり、
「おーぅ、あんたぁ西福原に行きたいんかねぇ?」と尋ねられた。

それを見た駅員さんは、

「あぁ、この人に連れてってもらったらいいよ」と(無責任にも見える)発言。

(ちょっと!誘拐されたらどうするんだよぉ)

なんとものどかな、この上なく信頼で成り立っている街だ!誰もが知り合い! 
そんな気がするような出来事だった。

実際、ワゴン車に載せてくれたその人に住所を言うと、家の前まで案内してくれた。

おぉ、お見事!  「どうも、お世話になりました~」

そして、今度は村田さん、お世話になります!
ワゴン車が去り、一人立ち尽くす。

ここは、米子市西福原にある村田さん家玄関である。
と言っても、インターホンはおろか、呼鈴もない。
なぜなら一軒家ではなく、玄関のあるアパートなのだ。

つまり、この玄関でノックしても、「ごめんください」などと言っても、
誰も出てこないか、出てきても他人である公算が強い。

だから、とりあえず中に入り、部屋番号を追ってみることにした。
どうやら一階の番号ではないようだ。

それで二階へ。ギシギシ音を立てながら昇ってみた。
そして、階段を上がってすぐ左の扉にその部屋番号を見つけ、ノックした。

「・・・・・」

誰も出てこない。というか、隣の部屋の人が出てきた。

「村田さんのお客さん?」

「あ、そうなんです。」

「村田さんなら6時までに帰ってくるよ。もう少しだねぇ」

おぉ、なんとお隣さんの予定まで把握しているとはすごい!
それにしても、人がとっても温かいと感じる街だ。

村田さんは5時半を過ぎてもまだ帰ってこない。
そんな時、アパートの別の部屋の扉が開いた。

そして、出てきたその人は僕の顔を見るなり優しい笑顔でこう言った。
「牛乳でよかったら、飲みます?」

待ちぼうけですっかり忘れていたが、すっかり喉がカラカラになっていた。
だから、そのお言葉に甘えて、ありがたく頂いた。
親切な人がもぐらたたきのように出てくる街だ。

そうしているうちにまもなく6時という頃、村田さんが帰ってこられた。
「あ、え~っと、K君?」

「そうです。村田さんですか?よろしくお願いします。」
こうして、僕はありがたく米子での一夜を過ごすことになった。

言うまでもなく、初対面の村田さんも親切な人だった。
そして、村田さんの部屋から見た夕焼けがとても綺麗だった。

ちょっと古いアパートなので色々な制約があっても、それはそれで楽しかった。
例えば、お風呂は共同風呂。大浴場ではなく順番だ。
大まかな使用時間帯が決まっているとのことだが、たまにずれこむらしい。
だからその時間にほんとうに空いているか確認してから入る。

シャンプーなどはそれぞれ個人用のものがズラリとタイル壁際に並んでいる。
仮に誰かのものを勝手に使ってもちょっともわからない感じ。
でも、村田さんは前もって「僕のはトニックシャンプーだからね」 と言ってくれた。
スッキリして、明日に備えて早めに寝た。Zzz・・・。

しかし、翌朝起きてみると悲劇が・・・・。布団の上に薄茶色のゴミがいっぱい!
「何じゃこれ!」 と、そば枕の中身が出たのか?とか色々考えたが、なんと! 
先日の合宿の海水浴で焼けた「僕の背中の皮」がボロボロとむけて、
しかも細かく粉砕していたのだ。

Tシャツを脱いでみるとさらにドバ~ッ。

「村田さん、すみませ~ん。これ、垢じゃないんです」そう言って掃除をした。

村田さんは「何てことないよ」とでも言うようにニコニコしていた。ホッ。

その後、村田さんは境港まで行く道を教えてくださった。
そうして、初対面のとても親切な人との一時は終わった。

さあ、いよいよ本格的に自転車の出番だ「米子産業道路」を北上して境港へ。
境線の線路とも結構近い道路らしいけど、列車が見えるかな。
村田さんに感謝して別れを告げ、米子を出た。

この日も、とにかくよく晴れた気持ちの良い天候の下での走行。
だから、山陰≒雨ばかり というイメージが僕にはあまりない。

さて、村田さんは「この道を進んでまず博愛病院を目指して」とおっしゃったので、
まずその通りに病院まで来たが、その時「おーい!」と言う声が聞こえた。

なんと、車に乗った村田さんがいるではないか!
「ここがちょっとわかりにくいから心配になって来てみた」とのこと。
この人、いったいどこまで親切なんだろぅ。

こうして、ものすごく親切な村田さんと最後の最後のお別れをし、産業道路に出た。
この道をとにかく進めば境港を越えて島根県に入る。
去年も通った境水道大橋を渡って強烈な坂を下り、一山越えて七類港に到着だ。

空がすごく遠く見えるような快晴の下、自転車で走るのは本当に心地よかった。
時々左に目をやっては、ちょっと垣間見える踏み切りや鉄道標識にときめきつつ、
ひたすら風を切ってペダルをこいだ。

残念ながら、最後まで列車の姿は見られなかったが・・・。

余談だが、僕はどうしてこの際に境線を利用しなかったのか・・・?
それは、隠岐への船が境港発でなく七類発だったため、もし鉄道利用すると
村田さんの家から最寄りの駅まで乗って分解、境港駅で組み立て、
七類港で分解と、繰り返すのが大変だと思ったからだ。

また、境線を客観的に見るのも楽しいかもと思ったが残念ながら当てがはずれた。

こうしてついにやってきた七類港は今年も大勢の観光客で賑わっていた。
七類港で僕を迎えてくれたフェリーおきじ。当時、最大で、主力だった船だ。
2004年4月に引退するまで大勢の乗船客を運んだ、隠岐汽船の功労者。

さて、七類港に到着した僕にはいつもの輪行作業が待っていた。
まずは自転車を解体し、輪行袋に詰め込む作業だ。のんびりしてはいられない。

これだけ大勢の乗客が乗るのなら2等客室はすぐに人で溢れかえり、
カーペット上でゴロンとできなくなってしまう。枕もすぐなくなるだろう。
そう思って、急いで乗船券を購入して、船に乗り込んだ。

予想した通り、すでに大勢の人で埋め尽くされた満員の客室。
そんな様子を見て予定変更し、「今日は気持ちいい天気やし、甲板にいようか」と、
甲板上で道中(海上)の時間を過ごすことに決めた。
鉄道旅行と同じく、輪行袋はくくりつけられる所にしっかり固定した。

徐々に七類の港を離れるフェリーおきじ。乗降口は取り残されたように見える。
そうして穏やかな入り江から大きな日本海へ進み始める。
夏らしい陽光きらめく航海はすごく気持ちよかった。風も頬に心地よい。
波はそれほど高くないが、時折水しぶきが上がって小さな虹が現れて綺麗だ。

しばらく進んだ頃、近くにいた人が、「うわぁ、何か飛びよるよ」 と言い出した。
僕もよく目を凝らして海上を見ていると突然「ビュビューーッ」
と、海から現れて長い距離を飛び、水に消える魚。紛れもなく「トビウオ」の姿だ。
見ていると次々現れ、船から90度方向に飛んでいく。
それに魅了されているうちに隠岐の島影が見えてきた。

今回はよく晴れていて島影が見えるのも去年より早い様だ。でもまだまだ。
船上での2時間半、探検をしたり海を眺めたりしたが、
さすがに暇を持て余すようになり、学校で出された課題図書を読み始めた。
そうしていると、時間は早く過ぎ去り、建物もはっきりと見えるようになっていた。

「おき西郷港」渡船場やショッピングセンターPIERの建物だ。
一年ぶりの隠岐はちょっと懐かしかった。

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