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【1987年7月】天文気象部・竹野合宿~復路編~

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鉄道旅行記

やがて福知山城が見え、列車もスピードを落とした。
これで僕は福知山駅に来るのが4回目となる。
そしてさらに、この合宿から帰ると1987年版隠岐旅行があり、
帰りの際にはまたこのルートを通ることになっている。

何だかずいぶん馴染みの駅になってきた。
福知山駅を出てからしばらくはぼんやり車窓を眺めていた。
しかし、そんな僕を一気に目ざめさせるイベントが近づいていた。
キハ40系・連結シーン
まもなく園部駅に到着する。
いくらか陽が翳り始めた園部駅。
到着寸前のところで車内放送が聞こえた。
「当列車は園部駅で増結いたします。連結作業のためしばらくお待ち下さい」

ここまでわずか2両編成で走ってきたこの列車が4両に増結するのだ。

連結シーンが見られる!
ボーっと待っている場合じゃない!と、喜び勇んでドアを飛び出した。

京都方面から2両がやってくるのかと思ったが、2両はすでにそこにいた。
というわけで、シャッターチャンスは意外に短いことをすぐに悟った。

そろりそろり・・・・・「カチャン」
全部で4両となり、堂々とした「列車」となった。
こうしてワクワクする連結作業のひとときを味わい、園部駅を出た。

列車が亀山に着く頃には、さらに太陽が傾いいてきた。
保津川沿いを走るころ、川向こうの山々が輝いて非常に美しかった。

今は嵯峨野観光鉄道のトロッコでしか見られない風景。
普段通る山陰本線から見られなくなったのは寂しいが、
よくぞ営業路線として残しておいてくれたものだと思う。

二条駅で見る西の空に太陽が今にも沈もうとしていた。
わずかながら梅小路蒸気機関車館が見えた。
東海道本線の線路群に吸収されるようにして京都駅に向かった。
そしてそのまま左端の方へポイントを渡り渡り進んでいった。

1番線の延長部分、山陰線ホームが視界にとらえられたこの時、
ついにこの合宿旅行も終わりを迎えようとしていた。

僕たちはボチボチ列車を降りる準備を始めた。
乗降デッキにくくりつけておいた輪行袋を手早くほどき、
肩紐をかけようとしたその時、「痛っ!・・・」 絶叫の瞬間だった。

昨日の海水浴による日焼けの肌に食い込む肩紐に、言葉にできない激痛だった。
少しでも痛みを和らげるため、紐を握った右手が肩の所に来るようにし、
部品を包んでいたプチプチシートを肩に当て、痛みをこらえて自転車を運んだ。

そして左手にはその他の荷物。
これまでの人生で、最も痛い思いをした日焼けであった。

山陰本線ホームは京都駅の1番線の西側部分、跨線橋まで行くのも遠い。
しかしそこから階段を上り、跨線橋を歩いて奈良線の8番ホーム(逆の端)へ!
そこまで歩くのが遠く長く感じたこと。

数多くの鉄道旅行者の波にのまれ、立ち止まることもできず歩き続けた。
そして階段を下る時の、肩への食い込みが・・・。

その様子を見ながらS西先生がポツリと言った。
「やっぱり山の方が良かったんとちゃう?」

・・・・この痛みのさなかでは返す言葉もなかったが、

早くも来年の「山VS海」攻防が起こることが容易に想像でき、
翌年のための対策をその場で考え始めてしまった。
奈良線のホームにはすでに105系電車が停まっていた。

味わい深さでは気動車にかなわないが、ローカル鉄道。
わずか一駅だが、この路線を利用することによって、いつも切符をGETできる。

今回も初めての青春18きっぷを手放さずにすんだ。

さて、こうして東福寺駅で京阪電車に乗り換えたが、
その地下通路を下る時、そして上る時も・・・。痛い。
鈍行のまま、急行に乗り換えることもなく樟葉駅へ。

とにかく荷物を肩に掛けたくなかったからだ。
帰りは自由解散のため、牧野駅まで乗る部員もいたため車内で別れを告げ、
僕らは樟葉駅で降りた。

そして、最後の痛みに耐えながら階段を降りた。
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