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【1983年8月】初めての東京旅行~実行編~

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日付はすでに8月9日。

これから併結する寝台特急紀伊は隣りのホームにもう到着。静かに時を待っている。
貫通扉がほんの少し開いている。

出雲2号のEF65PFは一旦切り離されて去って行った。
そして、寝台特急紀伊が東京方面にゆっくり動き出して
少し先のところで一旦止まったのが見えた。

やがて戻ってくるようにこのホームに向かってきた。
作業員さんの指示の下、ゆっくりと慎重に近づく。
「・・・ガッ・・チャン・・」と、表現しにくいほど静かに、
深夜の寝台車の連結作業に相応しい、騒音のない作業だった。

慎重に慎重を期しているのだろう。
なぜならまさにこの列車の連結作業で1年前に大きな事故が起きていたのだ。
下りの出雲3号が切り離された後の特急紀伊にDD51が勢いよく衝突した事故だ。

「すっげぇなぁ」

そう言いながら僕らはその作業を見守り、頭の中で何度も振り返っていた。
作業を終えて一本になった出雲2号と紀伊は名古屋を後にし、一路東京へ。

ところで、僕らは名古屋を出る時、ある目的があって列車の最後部に乗り込んだ。
それは、ほんのまもなく下り出雲3号&紀伊とすれ違うからだ。

僕たちの予測していた通りの時刻にすれ違い、その姿を見送った。
「今から、出雲3号と紀伊の、さっきの作業がまたあるんやなぁ」
でも、そろそろ寝ないと明日の朝がきついぞ。

すれ違った寝台特急出雲3号と紀伊を見た後、
もう遅いのでとりあえずしばらく寝ようということになった。
あの禁断のA寝台車をワクワクして仕方なく通り抜けて、自分の車両に戻った。

そして、すでに眠い目の「はせやん」と旅慣れした大沢君はコテッと寝た。
でも僕は一人興奮冷めやらぬまま・・・・。
一旦はベッドに入ってみたものの、眠れないので外を眺めることにした。

そこで通路の補助イスに座った。
というのも、当時の14系14形寝台はまだ3段式B寝台だったため、
上段の僕のベッドからはまったく窓が見えなかったからだ。

流れ行く車窓を眺めているうちに列車は富士駅に到着。
運転停車だ。時刻表に時刻は載っておらず、客扱いはされない。
既に、到着したこのホーム以外は灯りも消え静まりかえっている。
隣りのホームには身延線カラーの赤に白帯電車が眠っている。

列車は再び走り出した。ようやくいくらかの時間僕も眠った。
目覚めたのは朝6時目前、横浜駅到着の案内放送の時だった。
特に気にしてはいなかったが、
ここまで車内放送がまったく途絶えたままだったという事に初めて気付いた。

さぁ、横浜を出るとラストスパート。あと25分ほどの旅路。

その時、大沢君が以前よく言っていたこだわりが少し理解できた。
それは、「たとえ手前の駅で降りた方が便利でも、終点まで行きたい」という思い。

残りわずかになったその時間、僕はずっと外を眺めて余韻を楽しんでいた。
東京機関区、品川客車区そして田町電車区。
それら車両基地を見るうちに眠気は消えた。

そして、そこに「サロンエクスプレス東京」の姿もあった!
「サロンカーなにわ」と並び、ジョイフルトレインのスターとも言うべき
この14系700番代の列車を見て興奮は最高潮に達した。

そして、6時25分。
列車は定刻どおりに東京駅に滑り込んだ。

僕たちは、ほとんどすべての乗客が降りたのを見てから、
名残惜しい思いいっぱいで仕方なくタラップを降りた。

早朝の東京駅はもうすでに通勤客の波でごった返していた。
「おぉ~ここが東京かぁ」
そう言って、あの有名な丸の内口、レンガ造りの駅舎に向かった。

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